タラッパン運動とは…
韓国で始まったキリスト教の異端の運動の一つです。2000年代に入ってから日本に入ってきています。
「 タラッパン 」ということばそのものは、韓国語聖書にあるマルコの家の二階座敷のことで、漢字では「多楽房」と書きます。異端運動を指すときは「柳光洙(リュウガンス)のタラッパン」と言ったほうが紛らわしくなくてよいでしょう。英語で同じ意味の『アパ・ルーム』(The
Upper Room)という日々の黙想の手引き書は、この運動とは関係ありません。
1.タラッパンの歴史
この運動の創始者は、柳光洙です。彼はかつて大韓イエス長老教会(合同派)に属していましたが、神学的、道徳的問題から牧師を罷免されました。大韓イエス長老教会第81回チョンジュ総会において以下のことが決議されました。
(1)総神教授陣に依頼した論文を受け、基督新報に発表することを決議。
(2)柳光洙氏は、釜山中会(1991年11月26日)第133回一次臨時中会で、タ
ラッパン教理と道徳的問題によって、牧師免職となった者で、本教団傘下
におくことはできない。
(3)神学的・道徳的問題があるので、本教団傘下の教役者や教人は、彼の教
材 ・テープ・各種の集会参加は、許可しないことを可決。
2.タラッパン運動の特色
(1) 悪魔を強調
タラッパン運動の中で出されているテキストなどに悪魔(サタン)に関する内容が非常に多いことが特徴的です。人間のすべての不幸の原因は悪魔にあるとするところにこの運動の特色があるからです。人聞の苦しみ、病気は悪魔のせいだとして、人間の罪を責めずに悪魔を責めるのです。そして悪魔を縛る権威を与えられることを求めるのです。それこそ癒しにつながると考えるからでしょう。自分に悪いことが起こるとすべて悪魔のせいにし、悪魔を縛る祈りをし、自らの罪を振り返って悔い改めることがなくなるのです。従って、この教えを受ける人は、自らの罪を指摘されず、自らの罪も不幸もその原因が悪魔に転嫁されますから、耳ざわりの良い話を聞くことになります。イエス・キリストの十字架による購罪論がありません。
(2) 教会論の不在
この運動で言えることは、教会論が不在であるということです。例えば、この運動に携わる人は、タラッパン以外の教会は伝道がなまぬるいとして、積極的に他教会の信徒を自宅の家庭集会などに誘いタラッパンの学びをします。それもその信徒の牧師には内緒で行います。
こうして所属教会の牧師の知らない聞に、タラッパンの教えが吹き込まれることになります。やがて、タラッパンの影響を受けた人が、自らの属している教会の信徒にこの教えを密かに伝えだします。こうして熱心になればなるほどこの運動に理解を示さない人を裁きだします。続いて、教会ではタラッパンに行く人と行かない人に分かれることになります。それはまるで白蟻に蝕まれるようです。教会の秩序が著しく壊され、教会が分裂するような事態を招くことになりかねません。
(3)聖書解釈の偏り
この運動では、聖書全体をタラッパンの教えに従って解釈し、理路整然と語りま
す。独自のテキストがあります。既成教会の信徒でも救いがはっきりしていなかっ
た人がこの運動に参加して「今まで救いがはっきりしていなかったが、タラッパンを学んで、はっきりした」と言いだします。しかし、それはタラッパン独自の救いのことで、 十字架の贖罪論のない悪魔からの勝利を意昧します。
(4)伝道的に見える
既成教会の信徒で、日ごろから自らの属している教会の伝道の不熱心さを見て不満を持っている人は、タラッパンの伝道の熱心さに惹かれるようです。タラッパン運動の人も、現代の教会は伝道をしないのでなっていないと言います。
そのため、見ようによっては伝道的で、イエス・キリストの名も用いたりするので福音的にも見えますが、前述のように悪魔(サタン)からの解放が救いとされています。福音が一部含まれているので、一般の信徒には見抜くのは難しいようです。そして、伝道的と言いながら、他教会の信徒を誘うので、ぞれが既成教会を混乱させています。
今日、様々な悩みや苦しみを抱えている人がいます。原因も分からず理不尽とも思える状況の中で、解決を求めますが、医療機関に通っても癒されない場合もあります。既成教会に出席していても問題が残る場合があります。そうした中で、このタラッパンの家庭集会に招かれて、すべての不幸の原因が悪魔にあるということを聞くと、ここに解決があると思うのです。この不幸の原因である悪魔を縛りさえすれば自分は幸福になれると思うのです。人の弱みにつけ込んでいると言わざるを得ません。
私たちは、不幸と見える状況であったとしても、次の聖書の言葉を忘れないようにしたいものです。「イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』」(ヨハネ9:1~3)。そして罪からの救いは、主イエス・キリストの十字架と復活によることをはっきりと心に刻みたいと思います。